2020年7月20日月曜日

詩篇42篇1節の邦訳「谷川」やラテン語fontesは誤訳?

「ワイルドライフ」でイスラエルのネゲヴ沙漠をやっていたので思い出したことがあります。

対抗宗教改革期の清冽な合唱曲をたくさん書いたPalestrinaの曲の中でもよく歌われる、詩篇42篇(ラテン語聖書では41篇)をテキスト(ただしウルガタではない)にした美しいSicut cervus desiderat ad fontes aquarumの「fontes」や邦訳聖書の「谷川」は、ヘブライ語からすると誤訳です。

ラテン語ウルガタの全文です。
 In finem. Intellectus filiis Core. Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum, ita desiderat anima mea ad te, Deus.

邦訳では相当違いがあります。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(共同訳2018。新共同訳も「涸れた谷」)
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(新改訳2017、第3版以前も。そして口語〔協会〕訳も)

英訳をBibleHubのParallelで見ると、大抵はstreamsと訳されています。
Douay-Rheims Bibleのthe fountains of waterは、カトリックであるがゆえにラテン語訳に引っ張られている気がします。
(126篇の方は結構違ってstreamsが多いですが、Good News Translationのdry riverbedsはかなりの意訳とはいえヘブライ語のニュアンスに近いです)。

ヘブライ語では次の通り。

לַמְנַצֵּחַ מַשְׂכִּיל לִבְנֵי קֹרַח.לַמְנַצֵּחַ 
כְּאַיָּל תַּעֲרֹג עַל אֲפִיקֵי מָיִם כֵּן נַפְשִׁי תַעֲרֹג אֵלֶיךָ אֱלֹהִים. 

問題の語はאֲפִיקֵיで、これは番組でもやっていたように、雨が降った時だけ水の流れになるワディの、しかも川床をも指す言葉です。

詩篇126篇について論文を書いた時に調べていて、詩篇42篇にも出てくる語で、Palestrinaの曲などを歌う時にはfontesなので、きっと水がとうとうと流れる谷川がイメージされているんだろうけど、ヘブライ語聖書ではそうではありません。

この語は普通の川を表すものではありませんし、ワディとか涸れ川とか涸れ谷およびその川床を表し、126篇では雨季になって突然土石流みたい流れて、その後に突然花が咲き誇る様子で、そのように捕囚民が帰ってくるということのようです。
(竹内茂夫「詩篇126篇注解と私訳:新改訳2017も参考に」『宣教と神学』(神戸ルーテル神学校) 39:71-80。)

ネゲヴはこんな感じで、fontesも谷川もなく、ワディの川床が見えるだけです。
ですので、ヘブライ語では、水がない流れやその川床の上で、水を熱望してあえいでいる鹿のように、という感じです。
水がその場にあれば慕うことはありません(それよりも今遠くにいるというイメージなら別ですが)。

ラテン語のfontesがどこから来たんだろう?と思ってちょっと調べてみますと、ギリシア語七十人訳(LXX)がπηγὰς "a fountain, spring"と訳してしまったので、そちらに基づいているようです。
Εἰς τὸ τέλος· εἰς σύνεσιν τοῖς υἱοῖς Κόρε. Ὃν τρόπον ἐπιποθεῖ ἡ ἔλαφος ἐπὶ τὰς πηγὰς τῶν ὑδάτων, οὕτως ἐπιποθεῖ ἡ ψυχή μου πρὸς σέ, ὁ θεός.
もっとも、七十人訳の底本が、マソラ本文のヘブライ語本文の底本と同じかどうかの問題がありますので(多分違う)、「誤訳」と言い切るのは実は危険かもしれませんが。

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